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橋を渡り

研修会で徳島県に行ってきましたが 海岸線沿いを走っていると
景色が最高でしたので もの凄く気持ちよかったです。


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晴天の地鎮祭


午前7:00からの町内溝掃除に参加した後 午前11:00から地鎮祭奉仕でしたが
テントを設営して頂いていましたので 大変ありがたかったです。

非常に暑い中 生後1ヶ月の子供さんも参列してくれていました

25日の夕日


境内からの夕日

処暑も過ぎたのに!

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8月23日の処暑(しょしょ)を過ぎれば

暑さもだんだん涼しくなるという事なのですが

全くそんな気配はありませんね。



まだまだ残暑厳しい折ですが 皆様方何卒ご自愛下さい。

旅の帰りに立ち寄り

行ってみたかった荒神さん
山門を潜ると左側に鳥居さんもあります


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昭和22年「三宝三福」の教理に基づく真言三宝宗を開き
荒神信仰の総本山として新しく法幢をかかげられたそうです。

岩津天満宮さんへ

念願でした愛知県岡崎市の岩津天満宮さんに参拝させていただきました。



曲水の庭の苔の緑と 朱塗りで懸魚や兎毛通し等の飾金具が輝く拝殿 
そして爽やかな青空のグラデーションが印象的でした。




福梅は菅公の御神霊が御静まりになる 天神山の御神苑の実を 宮司さん神職さんが調整され
真夏の太陽の光をいっぱいに受け カラカラに干された梅です。
家族で美味しくいただきました。


余香殿の中庭


岩津天満宮・中興の祖 服部長七翁他 当時ご功績のあった方々の手形は圧巻でした。
また昨年の本殿再興百年記念事業の際に 手形掛け軸を作成されたと伺いました。



宮司様・奥様このたびはお忙しい中 お時間を割いて戴きまして
誠にありがとうございました。

私たちにとりまして色々なお話を伺った 大変有意義な岡崎の旅になりました。



内宮さんへ

外宮さんを参拝してから内宮さんを参拝するのが正式ですが
今回は失礼してしまいました。

午前10時頃でしたので五十鈴橋前の駐車場は満車で渋滞していましたが
それ以外の駐車場は比較的スムーズに入れました。
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この日も気温35℃と茹だる様な暑さでしたが
五十鈴橋を渡り 木々に囲まれた神域に歩みを進めると
霊気に覆われ暑さを忘れるひと時でした。

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神宮さんには何度参拝させて戴いても 新たな発見 新たな気持ちにさせて戴ける神域です。

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おかげ横丁に戻ると暑さと人の熱気で汗だくになり
楽しみの赤福氷を食べて小休憩 おいし~い

愛知県にも行きましたが写真整理が出来ていませんので
明日にご報告させていただきます。。。


『伊勢の神宮さんとは』
日本全国にたくさんある神社の中で古来 特別な神社として敬われてきたのが伊勢の神宮です。伊勢の神宮は正式には神宮とのみ申し上げ三重県伊勢市とその周辺に鎮座する百二十五のお社の総称です。

その中心は、皇室のご祖先である天照大御神をおまつりする皇大神宮(内宮)と天照大御神のお食事をつかさどり、衣食住はじめ産業の守り神である豊受大御神をおまつりする豊受大神宮(外宮)です。

今から2000年以上前の第11代垂仁天皇の御代 天照大御神のお告げにより皇大神宮がまつられ 約500年後の第21代雄略天皇の御代には、豊受大御神が伊勢に迎えられました。

神宮では年間約1500回ものお祭りが行われていますが 神宮のまた日本国中で最高最大のお祭りは式年遷宮というお祭りです。式年遷宮は、20年に一度すべてのご社殿をはじめご神宝などを新しく造り替えるお祭りで、そうすることでみずみずしさを保ち、ご神威が高まることを願ってきたのです。第41代持統天皇の御代に始まったこのお祭りは、平成25年に第62回が執り行われます。

二度目の夏





多くの児童・教師が犠牲になられた 宮城県石巻市の小学校で7月
教職員で唯一行方不明だった男性教諭の遺体が見つかりDNA鑑定で身元が確認された。
男性教諭の遺体発見により、大川小の死者は児童70人、教諭10人。

今もなお4人の児童が行方不明となっていて、周辺では保護者らが重機などを使った捜索を続けられている。
同小校門にある献花台には、花を持って訪れる人が絶えない。




宮城県南三陸町内では現在 公立志津川病院などの建物の取り壊しが進んでいる。
がれきの山のそばに横たわる蒸気機関車(SL)も 25日から解体処分される。 

このSLは、昭和13年製造のC58形で昭和51年に引退し廃車。
福島県の会津若松に保管された後 気仙沼線の全線開通を記念して同町内の松原公園内で
展示保存されていたが 大津波で流され横倒しのままになっていいました。



宮城県南三陸町内では現在 公立志津川病院など津波被害のあった建物の取り壊しが進んでいる。
防災対策庁舎は 折れ曲がった鉄骨がむき出しのまま残り 今も震災の悲惨さを象徴する建物を
訪れる人は絶えない。

保存の話も出たようですが ご遺族らの反対を受け 取り壊しを決定。
10月末までに解体し 跡地には震災被害を後世に伝える自然公園や記念館を造る計画だそうです。



大津波に耐えたものの 海水で枯死した「奇跡の一本松」の保存方法について
岩手県陸前高田市は7月20日 いったん幹を切断 輪切りにして中心部をくりぬき
防腐処理後に組み立てると発表しました。

雷雨



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14日の加古川は夜明け前から激しい雷雨です。

境内の花や木には久しぶりの恵みの雨となっていますが

神社では年祭や慰霊のおまつりがありますので 止んでくれるといいのですが。






お盆は仏教行事?

神社まめ知識14『お盆は仏教行事?』

お盆は仏教行事というイメージがありますが
実は「お盆」は 日本古来からあった先祖祀り(まつり)がもとになっています。

神社又は神道の家庭でもお盆の時期には先祖祀りをしています。


~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
お盆は、多くの方が仏教の行事と思われていますが
元来は仏教伝来前からの日本固有の先祖祀りがもとになります。

ところが、江戸時代に入り、幕府が檀家制度によって
庶民の先祖供養を仏式にするようにしたため
お盆も仏教のみの行事と誤解され、現在に至っています。

ですから神道の家庭においても
お盆の期間中には、自宅の祖霊舎を清めて
季節の物などをお供えし、家族揃って御先祖さまをお祀りします。

日本では、古くから神祭りと共に
御先祖さまの御霊を丁重にお祀りする祖霊祭祀がおこなわれ
人々は神と祖霊の加護により平安な生活を過ごしました。

この神とは唯一絶対の神でなく
自らと繋がりのある御先祖さまが
徐々に昇華して神となった御存在であると信じてきました。

年中行事の中でお盆と正月が二大行事として重視されるのも
お盆が御先祖さまを、お正月が神様をお祀りする行事として
いづれも我々と繋がりのある祖霊や神々をお招きするという
意味を持つからなのです。

仏教行事のお盆は
『盂蘭盆経(うらぼんえ)』という経典によるものであり
仏弟子の日蓮が餓鬼道に落ちて苦しんでいる母親を救うために
釈迦の教えで、七月十五日に安居(あんご・修行)を終えた僧侶を
百味の飲食(おんじき)を供えて供養したところ
その功徳により母親を含め、七世の父母(七代前の先祖)まで
餓鬼道から救済することができたという孝行説話に基づくものです。

仏教が日本に伝来すると、こうした盂蘭盆会の行事が
諸寺院において行われるようになりました。

当初は僧侶の供養が中心だった「盂蘭盆会」は
その後、日本の祖霊祭祀と結びついて
ご先祖さまを祀る「お盆」となりました。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・


当社も明治になるまでは本社の八幡宮と神宮寺としての八幡山別当長壽寺があり
先祖が代々別当職(べっとうしょく)として奉仕しておりました。

明治時代になり廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により 江戸時代最後の八幡山別当快善
還俗し 名前も宮城豊重と改め(明治3年2月) 明治43年まで奉仕しました。

豊重(快善)は嘉永元年(1848年)先代別当栄照が亡くなると
17歳にして別当に就き 以後明治43年80歳で亡くなるまで
宗教者として激動の時代を生きてこられました。

我が家のお墓も仏式と神道式の2種類あり 墓所も3か所にわかれています。


被災地で花火を!

ライトアップ日本 2012夏

昨年に続き 本年も被災地にて慰霊の花火大会が開催されます。

月日は流れ大災害より1年5ヶ月が過ぎようとしておりますが
未だに行方不明の方々も多く 被災地の方々の心癒えるひと時は
まだまだ少ないのではないかと想像いたします。

被災地を明るく照り輝やかす花火によりまして
お亡くなりになられた方々 行方不明の方々の御霊をお慰めし
また多大な被害に遭われながらも 日々生活をされている方々が
ひと時でも心癒される日となります事を 遠い地より心から
ご祈念申し上げます。
 



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夕日



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幻想的な西の空


ねぶたまつり

2012年題材
南瑠璃埵の増長天と白銀埵の広目天
(なんるりたのぞうちょうてんとはくぎんたのこうもくてん)
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 【題材解説】
四天王は元来、古代インドの護世神で仏の世界においては、須弥山の中腹にある四天王天の四方(賢上城に住む持国天は東方、南瑠璃埵に住む増長天は南方、白銀埵に住む広目天は西方、天敬城に住む多聞天は北方)を守り、須弥山の頂上に住む帝釈天に仕えています。

日本においては四天王信仰というものが飛鳥時代からあり、四天王のうち、多聞天(毘沙門天とも言う)だけは単独で信仰され、それ以外は単独で信仰されることが少ないものの、増長天は五穀豊穣、広目天は悪を処罰する力を持つと言われています。

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竹田城跡

研修会ではじめて竹田城跡に行ってきました。
クールビズとはいえ7月下旬の猛暑の中 スーツ&革靴にはハードで
1時間30分の散策は汗だく・・・。

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(写真お借りました)

竹田城跡は、天守台を中央に南千畳・北千畳・花屋敷が放射線状に配され、城の築かれている山全体が、虎が臥せているように見えることから「虎臥城(とらふすじょう・こがじょう)」とも呼ばれています。JR竹田駅から見上げると石垣の辺りは虎の背中、尾根伝いの山が首や頭にあたります。

標高353.7メートルの山頂に位置する竹田城跡は、嘉吉年間(1441-43年)に但馬の守護大名・山名宗全が基礎を築いたとされ、太田垣氏が5代にわたって城主となりましたが、織田信長の命による秀吉の但馬征伐で天正8年(1580年)に落城。最後の城主・赤松広秀が豪壮な石積みの城郭を整備したと言われます。

縄張りの規模は南北400メートル、東西100メートルにおよび、完存する石垣遺構としては全国屈指のもので、平成18年には日本城郭協会により「日本100名城」に選定されました。自然石を巧みに配置した近江穴太衆による石垣は、400年を経た今でも当時の威容を誇っています。

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天守台からの景色は素晴らしく さわやかな風が心地良いです。

葉月の朔日

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午前5時より月次祭を齋行させていただきました。

暦では7日(火)には立秋ですが

汗は滝のように流れ 時折ふらつく位の猛暑ですね。


まだまだ暑い日が続きますが 皆様方何卒ご自愛下さい。

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